コロナについて教育の立場から思うこと。

このたび、COVID19(新型コロナウイルス)の影響を受けて、考えたことを発信します。

スポーツ推薦における平等性の担保?

緊急事態宣言で、学校は休みにならないとしても、部活動はどうなるんだろうと思って調べている。

 

大会等、中止になるのか、と調べても、無観客などの措置は取られても中止にはならないらしい。今現在。

 

もう3日後だからやってしまいましょう、とか、あとは決勝だけだからやってしまいましょう、なら、全然何も思わないです。

 

そして、感染のリスク等もわかった上で、それでもやりたいなら、やったらいいと思うのです。

 

だって、せっかく、そのために準備してきたんだから。

そして、延期したところでいつ開催できるかわからないし、学生にはタイムリミットがあるから。

 

でも、その理由が、

 

たとえば東京の子だけ緊急事態宣言を理由に大会に出られないとしたら、

大学入試のスポーツ推薦で東京の子だけ不利になってしまうから、

 

というのであれば、は?と思う。

昨日のニュースで聞いた。

 

そもそも、スポーツ推薦とは何なのかということから問い直さなければならない。

 

そして、大学入試とは何なのか、大学とは何なのかということを問い直さなければならない。

 

名古屋大の内田良さんをはじめ、部活動についての疑問を呈する人は多くなっている。

とくに運動部や一部の文化部は、大会があるから過剰な練習を行い、生徒にも教員にも必要以上の負担を強いる。

だから全国大会をなくせ、というのは極論だし、やっぱり試合や大会があるから部活動にハリがあるんだし、と思う。

 

大会がどうしてあるか。

どなたの研究だかすぐに思い出せないんだけど、戦後すぐに教員になった人は、師範学校の同期もおらず、研修もあまりなく、寂しかったからサークルを作った、というのがあって。これは教員間のサークルの話だったと思うんだけど。

他校と交流しましょう!っていうのは、生徒のためももちろんあるけれど、教員間のコミュニケーションのためというのもあるのだということ。

内田良さんが指摘しているのは、その教員間や大人間での見栄的なもの(大会で何位をとるとか、組体操で何段ピラミッドを組むかとか、十分に練習された卒業式をとり行うとか)が、過剰な負担を生み出しているのではないかということ。

 

学校とは何か。

さんざん、このコロナ禍で私が考えさせられたこと。

やっぱり、基本は授業だと思う。優先第一。

なぜなら、教員免許は国語なら国語、数学なら数学の専門教育を受けた人がとってるから。

国語を教えることに付随して、学級指導や校務分掌、部活動等があるわけで。

そして、大学とは何かを考えたとき、やはり、「学問」「研究」だと思う。

サッカーを極めたい、サッカーについて専門的に学んで、サッカーについて研究するんだ!というなら、サッカーでのスポーツ推薦をどうぞ。

スポーツ推薦というのを否定したいわけではない。AO入試の一形態だから。各大学の運動部の事情は横に置く。でも、たとえば、3ヶ月以上の留学経験があれば受験できる枠なんかは、もうダメなんですよ。平等性が担保されていない。コロナ禍になる前に留学した人勝ち。そして、スポーツ以外でも、すでにコロナ関係で大会やイベントに参加できなくて実績を作らなかった子はたくさんいるだろう。

だから、スポーツ推薦での不平等性を理由にして、非常事態宣言下での部活動のあり方や大会運営を考えるのは、よくないと思うのです。

 

そうじゃなくて、違う理由で、不平等性とかそういう理由じゃない理由で、考えて欲しい。