コロナについて教育の立場から思うこと。

このたび、COVID19(新型コロナウイルス)の影響を受けて、考えたことを発信します。

しゃべれなくなっている

この前、人前でお話しする機会があった。

 

といっても、画面に向かってひたすら数十分一人でしゃべるだけ。

 

反省のために録音をしていて、愕然とした。

 

ひたすら早口の関西弁、複文。

 

ゆっくりとした標準語で、シンプルな構文で話すべきだった。

 

私は、意識せずに、早口複文関西弁を数十分とうとうと述べていた。

 

大学は標準語でしゃべっていた。研究室に留学生が多かったので、彼らがわかりやすい日本語で話すことができていたと思う。そして、関西の大学なのに日本人も関西人がいなかったので、関西弁を話すことができなかったのだ。

そのときのしゃべり方をするべきだったのだ。

 

仕事で、関西弁を再びしゃべり始めた。

しかしこれは、たとえば同僚と話したりクラスの子と話したり親御さんと話したりするときに、距離を縮めるという明確な意図を持って始めたことだった。関西弁にすると、言葉の中にひらがなが多くなる。

関西弁にすることで、言葉を曖昧にすることができる。

関西弁にすることで、親しみやすい印象を与えることができる。

関西弁にすることで、ゆっくりした感じを与えることができる。

 

仕事は、どうなんだろうちゃんとやれてるのかな。自信はないけれど、みんなの前でしゃべるときは声の出し方が違うから、標準語になっててほしいと思う。

仕事の仕方を変えたので、今年からは、職員室やクラスでたくさんおしゃべりする状況は消えた。

べらべらとおしゃべりする相手は、この数ヶ月、母しかいない。

この、常に他人としゃべっていないと気が済まない私が、母としかしゃべっていないのだ。

 

なんか、このまま人としゃべらずに生きていくとまずい気がする。

ただの独り言を垂れ流すしゃべりしかできなくなっていくような気がする。

そろそろ何かがおかしくなっていきそうな気がする。いや、おかしくなっているか。

とはいえ、まだ緊急事態宣言が明けるまで、たくさん日にちがある。誰とも会えない。

やばいな。