コロナについて教育の立場から思うこと。

このたび、COVID19(新型コロナウイルス)の影響を受けて、考えたことを発信します。

「軽症だから大丈夫」への切り返し

緊急事態宣言が終わったら、また、結構言われる。

「軽症だから大丈夫」「無症状だから大丈夫」。

私に対しても言われるし、子どもたちに対しても言われる。

北九州が、とか、外国では、とか、思うけど。

コロナの怖いところは軽症から突然重症になることだよ、とか、思うけど。

血が血管を攻撃して血栓ができてカタカナの難しい現象が起きて肺以外への臓器のダメージとか足先の壊死とかあるらしい、とか、思うけど。

そもそもコウモリ由来の未知のウイルスってだけで怖くないか、とか、思うけど。

私が学校休むだけじゃなくて学校全体数週間休みになるんだぞ、とか、思うけど。

ていうか、私の周りに絶対に迷惑はかけたくないし、感染拡大を止めようと必死な身近な人たちの足手まといに絶対なりたくないんだけど。

 

何を言ったって、絶対に、その人は聞かないだろう。

 

でも、ひとつ、そういう人が絶対に黙る言葉がわかった。

「味がしない、においがしない、という状態が、一週間から数週間続くんです。私には拷問です。耐えられますか?私には無理です。だから、無症状でも軽症でも絶対に感染したくないです」

これは言い返されない。

 

お試しにどうぞ。

慣らしが必要

明日から、いろいろ、始まる。

 

先週、慣らしで仕事をした。

朝はなんとか起きられた。

しかし、筋肉痛。主に太もも。

何なんだろう?と考えたら、

階段

だった。

自粛中、一切と言っていいほど階段の上り下りをしていなかった。

自宅はマンションなのでエレベーターだし、あとはひたすら平地での散歩しかしていない。街に出ても、最低限の用事で済ませて、デパートは食品売り場にしか行っていない。

 

喉が心配。

しゃべり続けられるだろうか。

字が心配。

黒板にたくさん書く筋肉は残っているだろうか。

 

3月、4月、5月。

まあよくここまでたくさん寝られたことよ!くらいしか思ってなかったけれど、

筋肉を衰えさせているんだな。

自分では気づいていない、きっと。

ほかにもきっと、たくさん、そんなことはある。

 

階段を上がる。ただそれだけのことで、筋肉痛になるとは。

「受験」のためではない

小一、小六、中三、高三に優先的に教育を、と言われる。

中三、高三は、入試のためだと。

ちがう、そうじゃない。

高校に進学しない人もある程度いるし、大学は世の中の半分くらいしか行かない。

中一の内容でやり残したものがあっても、中二でカバーできる、中二でやり残したものがあっても、中三でカバーできる。でも、中三でやり残したことは、あとでカバーできない。中学のうちにやっておかなければならないのだ。だから、優先的に中三に学ばせなければならないのだ。

高三も同様。

中学の内容と高校の内容は全然違う。教員だって、免許の種類が違う。だから、高校一年生で中三の内容をする、というのは、建前上はできないのだ。

そして、大人になってから思うけれど、人生で大切なことはたいてい中学までに学んでいるのだ。

中学までの学習内容って、ほんとうに生きていくために必要なことを整理してうまくまとめているなぁ、と思う。義務教育、として納得できる。

 

なぜ、「受験」のための教育なのか?

それを、文科省が言ったかどうかはわからないけれど、少なくとも私の読んだ新聞記事やネット記事の見出しは書くのか?

「受験」はゴールではない。みんながみんな受験するわけではない。

 

私は、「受験」のための教育には反対だ。

学校教育を受けた、その結果を、持っていけばいい。各人が勝手に勉強して、好きなように高校なり大学なりを受ければいいと思う。

だから、各教育課程は、生徒が望む進路を叶えられるよう、そのときに教えると決められたことを、しっかりと教えるべきだ。

受験があるから教育をするんじゃない。教育を受けた結果、受験をするんだ。

 

 

学校のトイレ掃除

しばらく、生徒に掃除はさせられないということで、教員が掃除をする。

 

私は、生徒は掃除をするべき論者。

自分たちが使うところは自分たちできれいにするべきだと思うから。

そして、やっぱり、それが早いから。

ただ、限界はあるし、基本は自分たちでやるけれど、定期的に業者さんがやってくれたらいいなと思っている。

窓とか、網戸とか、細かいところとか、掃除しにくいところがたくさんあるし、

他人が使ったトイレを掃除したり、自分が使ったトイレを友達が掃除したりというのはなんか嫌だから。

トイレ掃除もするべきだけど、便器を磨き上げるとかはいらないかな、と。

体験として、教育として、まあポーズとしてあればいいかな、と。

 

地震などで避難生活があると、海外では感染症が心配されるという。でも、日本では避難所で感染症が問題になったことはない。それは、集団生活では自分たちが使ったところを掃除するのは当たり前とされる、まず掃除当番が決められる、という学校教育で培われた感覚があるから、と聞いたことがある。

 

感覚的にばかり考えていたのだけれど、

今回、トイレは感染のリスクが高いので教員が掃除する、と言われて、ん?と思った。

じゃあ、これまで、感染のリスクが高いことを生徒にさせていたということ?

使用後、トイレットペーパーを三角に折るのはやめてほしいという理由が、お尻を拭いた手は菌がついていて汚いからそれで次の人が使う紙を触ってはいけない、と聞いて、ぞっとしたことがある。

小学生の頃は、和式トイレの方が人気だった。高校生くらい、2000年代くらいまでそうだったかな。他人が座った便座に座りたくないと。ウォッシュレットが普及して便座があたたかくなって、消毒液で便座を拭くことができるようになってから、一気に洋式が人気になって、まだ洋式拒否の気分は少し残っているけれど、まあいいやと思い始めている。

まあ、トイレが感染リスク高いから生徒に掃除させないとして、教員は感染リスク高いことをしていいわけ?

生徒が帰ったら、それっ!とトイレに駆けつけ、磨き上げて消毒してむっちゃきれいにしているけれど、感染リスクすごいのか?手袋はしているけれど。

だから業者さんにお任せして業者さんをリスクにさらされていいというわけではないけれど。

さまざまな地域、さまざまな条件のおうちから、公共交通機関を使って集まってきた生徒に、トイレ掃除をした私たちが接して、また公共交通機関、さまざまな条件のおうち、さまざまな地域に返していくの?

 

トイレ掃除自体はできるようになった方がいいと思う。便器をきれいにする仕方はわかっておいた方がいい。

でも、それはご家庭の教育にお任せして、今後、生徒のトイレ掃除は、洗面台の掃除くらいでいいのではないだろうか。

そして、教室掃除なども、基本的なことは生徒がやるけれども、週に一回とかの頻度で業者さんがきれいにしてくれないだろうか。

 

私自身は、中高がよい校舎で、壁の凸凹は極力なくして、壁と床の境目を丸くするなどの、掃除しやすい工夫が凝らされたところだったので、掃除の苦労をあまり感じなかった。でも、勤めてきたところは、どこも掃除しやすい工夫が凝らされていない、掃除のしにくい、埃の溜まりやすい校舎設計だった。コストがかかるのだろうけれど、掃除のしやすい校舎づくりをしてほしいなぁ。

 

甲子園だけじゃない

夏の甲子園が中止になった。

テレビでもニュースでも取り上げられた。

野球が好きな人はたくさんいる。毎年、甲子園を見ることを楽しみにしている人もたくさんいる。甲子園から毎年話題の選手が生まれる。甲子園で評価されてプロ野球の世界に入る球児がいる。甲子園を目指してずっと野球を続けてきた子が、親がたくさんいる。

甲子園が注目される理由はよくわかる。

ここぞとばかりに、いろんな人が「甲子園が中止になってかわいそう」というのもわかる。

でも、中止になったのは、野球だけじゃない。

インターハイも、吹奏楽も、合唱も、すべて中止になっている。すべての部活の大会が中止になっている。

 

学校って、何なんだろうと思う。

 

映画やドラマの学園もので、授業はほとんど映らない。

 

私も、授業で得たものもたしかに大きいけど、高校時代はクラブと行事と自分の仕事のために生きてた。

弱小クラブだったので、コンクールはあまり関係なかったのだけれど、それでもクラブ中心の生活だった。

クラブが生きがいになってる子は多いと思う。

そうじゃない子は、受験?

クラブも受験もしない子もたくさんいるはずだけれど。

 

特定の一部だけが取り上げられてかわいそうと言われて、取り上げられないものは日陰に入ってしまう。

その姿勢がいろんな報道や政策に通底している気がしてしまう。

 

クラブの実績で大学受験や就職試験に臨もうとしていた子にとっては、クラブがないというのは一生に関わる。

それで大学に入ったり就職したりしていいのかという問題はさておき。

学校とは何なのか、クラブとは何なのか、見つめ直した方がいいと思うし、落ち着いたらそれを議論するべきだと思う。

断り方がわからない

堰を切ったように、「飲みに行こう」の誘いがくる。

 

2月末の休校措置くらいから、人と約束するのはやめ始めた。職場でも、避けてくださいと言われた。どうしてもの場合のみ、絶対に空いているお店で、ということにした。

4月になると、完全に外食をしなくなった。「かかっても軽症だし大丈夫だよー」と誘ってくる人もいたけれど、緊急事態宣言出てからは誰も何も言わなくなった。

 

3月、なんて言って断ってたのか、あまり覚えていない。

いやー、ちょっとー、くらいで伝わってたかな。

職場外の人でも、教員が感染リスクの高い仕事ってこととか、家族が医療従事者ってことで、自分がうつすかもしれないからって断ってたかな。

気分的にも、行く気にはなれなかった。ほんとうに。

 

私は、もうちょっと、自粛していたいのです。

もうしばらくの間、外食はしたくないのです。

外食をするとしても、3月と同じく、どうしても必要な場合に空いてるお店で、くらいでいたいのです。

なんで?と言われても、気分的なものでしかない。

夏まで巣篭もりするつもりだったから、くらいでしかない。

というか、やっぱり、感染のもととなることに加担するのは嫌だなぁ。

それなのに、それなのに、緊急事態宣言なくなって、外食解禁だよ!外食したいって言ってたじゃん!行こうよ!ってお誘いが、複数…。

喪明け?物忌の終わり?なんかの謹慎が終わった?なんか、緊急事態宣言終わったさあ自由だー!って気分にはならない。

誘ってくる人が何を考えているかわからないけれど。

 

なんて言って断ったらカドが立たないのだろう?

 

もう自分の作るごはんには飽きてきているので、そして一人で食べるとぜんぜん楽しくないので、外食はしたい。「よし!月曜日の夜いきましょ!」って返事をしたい。

でもね、自粛していたい。

ちょっと、まだ、飲みには行きたくない。

 

どう言えば。

黒川さん

マージャンが、とか、

新聞社と、とか、

お金を賭けた、とか、

問題はたくさんあるのでしょうけれども。

 

こんなに出かけたいのに、人と会いたいのに、密室と密接と密集をこよなく愛しているのにそれができなかったのに、

緊急事態宣言でてるから、我慢して我慢して我慢して、

スマホとテレビ相手にずーっとひとりぼっちでステイホームしていたのに、

なんで「えらい人」が、私に「ステイホーム」と言う立場の人が、

出かけて人と会って密室で密接して密集していたんだよ、という怒り。

自粛しろよ、っていう怒り。

ええ、自粛警察ですよ。他人が「自粛」してないことに腹が立つのは。

なんで、楽しいことしてるのよ!

東京は関西よりもっともっと深刻だったじゃないか!

みんな我慢してたのに!

 

黒川さんでなければできない仕事があったんでしょう。この国民の命がかかった混乱の中、無理矢理法律を変えてでも押し通さなければならない何かが。

その人が、このスキャンダルで辞めてしまう。

じゃあ、定年で辞めても問題なかったんではないのか。

そんなに重要人物だったら、謝って、検事長を続ければいいじゃないか。

検事長っていうのが何をしているのかは知らないけれど、お金をかけることが悪いことだということは知ってるはずだ。それなのに、きっと、今回が初めてではない。

ネットでここまで話題になる前に、自分の定年を伸ばす法案が通ることがあまりよくないことはわかっているはずだ。それなのに、その渦中の人物であるという自覚がない。

なんかもう、言いたいことは山ほどあるのだけれど、どう言ったらいいかわからない。

 

ただひとつ、はっきり言えることは、

私がこんなに我慢してるのにどうして我慢してないのよ!っていう怒り。