オリンピック
カナダにいる中国出身の友達と長電話した。
「ところでオリンピックはやるの?」と聞かれた。
今日の尾身さんの会見でもオリンピックをやる前提だったので
「やるらしいよ」と返したら
「ワクチンは日本のみんな打ったの?打ててないの?カナダはワクチンを多く打ったから状況がましになったよ?」と。
「ワクチンはまだ十分ではないけれど、G7の会議で首脳国のみなさんから応援してもらったし、オリンピックやるんだって」と返したら
「え?やるの?ほんとうに?オリンピックやるの?」
と笑っていた。
私だって、「やるんだって」と繰り返して笑うしかない。
あ、やっぱり、「やるの?」って笑われる事態なんだということだけはよくわかった。
緊急事態宣言に麻痺している
街に人がたくさんいる。
みんな楽しそう。
いま、修学旅行生もいない、外国人もとても少ない、そんな京都の街に人がたくさんいる。
一人の人も多いけど、友達や恋人と約束しあって来た人も多いんだろう。
駅の「不要不急の外出は控えましょう」というアナウンスが虚しく響く。
まだ、私は守っている。
実家と職場以外は、公共交通機関を使って行かない。
用事がある時しか町に行かず、用事を済ませたら帰る。
わざわざ約束して誰かとごはんを食べたり会ったりしない。
教育実習のとき、私はとても苦しかった。
なぜなら、それまで赤信号をちゃっと渡ってしまうような学生だった私が、教員として振る舞わなければならなくなったから。
てきとーな服装もできないし、暑い時にはちゃんと日傘をさすし、食べながらやスマホ見ながら歩いたりもしない。
どこでも見られている、後ろ指をさされないようにしていなくちゃ、という意識がしんどかった。
今はそれに慣れてきただけで、生徒や保護者さんにいつ見られてもいいようにとは常に思っている。
それで自分を保っているところがある。
休日はわざとスポーティーなおしゃれやだらだら系のおしゃれをして町に出て、生徒とすれ違って「休みの日の先生、ふだんと服装違ってかわいい」と言われるのが楽しかった。そして、撮られた写真が出回ることも想定していた。
だから、私は、生徒に、不要不急の外出はしないでね、感染リスクがあると思うことはできる限りしないでね、と言っている以上、私もそうしなきゃいけないのだ。そうしなきゃ、私が私でなくなる。
そして、あと1週間、我慢しなきゃ、これまでの我慢は何だったの、となってしまう。
私は、不要不急の外出と約束はしない、というのを守り続けなきゃいけないのだ。
ていうか、それが普通だと思うんだけど。
緊急事態宣言ってそういうものではないのかしら。
でも、ずっと緊急事態宣言が出ているので、もう何が何だかわからなくなっているのも確か。
麻痺している。
どうしたらいいんだろう。
飲み会したいよ。
しゃべれなくなっている
この前、人前でお話しする機会があった。
といっても、画面に向かってひたすら数十分一人でしゃべるだけ。
反省のために録音をしていて、愕然とした。
ひたすら早口の関西弁、複文。
ゆっくりとした標準語で、シンプルな構文で話すべきだった。
私は、意識せずに、早口複文関西弁を数十分とうとうと述べていた。
大学は標準語でしゃべっていた。研究室に留学生が多かったので、彼らがわかりやすい日本語で話すことができていたと思う。そして、関西の大学なのに日本人も関西人がいなかったので、関西弁を話すことができなかったのだ。
そのときのしゃべり方をするべきだったのだ。
仕事で、関西弁を再びしゃべり始めた。
しかしこれは、たとえば同僚と話したりクラスの子と話したり親御さんと話したりするときに、距離を縮めるという明確な意図を持って始めたことだった。関西弁にすると、言葉の中にひらがなが多くなる。
関西弁にすることで、言葉を曖昧にすることができる。
関西弁にすることで、親しみやすい印象を与えることができる。
関西弁にすることで、ゆっくりした感じを与えることができる。
仕事は、どうなんだろうちゃんとやれてるのかな。自信はないけれど、みんなの前でしゃべるときは声の出し方が違うから、標準語になっててほしいと思う。
仕事の仕方を変えたので、今年からは、職員室やクラスでたくさんおしゃべりする状況は消えた。
べらべらとおしゃべりする相手は、この数ヶ月、母しかいない。
この、常に他人としゃべっていないと気が済まない私が、母としかしゃべっていないのだ。
なんか、このまま人としゃべらずに生きていくとまずい気がする。
ただの独り言を垂れ流すしゃべりしかできなくなっていくような気がする。
そろそろ何かがおかしくなっていきそうな気がする。いや、おかしくなっているか。
とはいえ、まだ緊急事態宣言が明けるまで、たくさん日にちがある。誰とも会えない。
やばいな。
やっぱりオンラインは全てじゃない
大学のゼミに参加している。
うちの大学は、自転車通学の人が多いというのが理由だろうけど、まあ雨が降るとほとんど学生は大学に来ない。暑くても来ないし寒くても来ないし風が吹いても雪が降っても連休の次の日でも来ない。先生も。
一応毎回大学に行って、大学の安定したWi-Fi環境で参加していたけれど、
雨降りだから自宅から一歩も出たくない。
それでもオンラインでゼミに出られるというのは便利だ。
まあ、いいのか悪いのかわからないけれど。
在学中は、ゼミの始まる前は、研究室で発表者を励ましていた。
ゼミが終わると、先生に呼ばれて先生の研究室で指導を受けて、
それが終わると、研究室で皆が出迎えてくれて、フォローしてくれたり慰めてくれたり、追加の質問をしてくれたり、アドバイスをしてくれたり、そっとお疲れ様のお菓子をくれたり、ランチ食べながら議論を深めたり、というのがあった。
でも、オンラインだと、そのゼミの前後がない。
一人で原稿を用意して、一人でしゃべって、1時間弱質疑応答の時間があって、それだけ。
堅い質問はできるのだけど、軽いことは聞きづらい。
ゼミって、ゼミの時間そのものにも価値があるんだけど、準備期間や発表の後にものすごく価値があったんだなと思わされる。
そして、日頃から一緒に生活している仲間感というものが、ゼミ発表に安心感と信頼感と緊張感をもたらしていた気がする。
今はオンラインしかないから仕方がないんだけど、
オンラインで終わらせてしまうことで、多くのものを失ってしまっている気がするんです。
「かかりつけ医」
ワクチン接種がどうなっているのかわからないけれど、
かかりつけ医で、という話の時期があった。
今は大量接種会場とか職場でという話が出てきたけれど。
私が定期的に行っているのは、某大学病院の消化器内科。ここでは外来の人にワクチン接種はしませんと明記してある。ここの大学病院でワクチン接種をし始めたら大変だろう。「かかりつけ」として想定されていない気がする。
あと、定期的に行っているのは、皮膚科。基礎化粧品を買い、冬場の手荒れや肌の不調を相談するところ。皮膚科とは注射に適した「かかりつけ医」なのだろうか?
あと、心療内科。メンタルで胃腸の不調があるので。ここは話だけで、実際に胃腸を診てもらっているのは某大学病院なので、注射はまったく期待できない。
つまり、「ワクチン接種」で想像しやすい「かかりつけ医」である内科や耳鼻咽喉科の行きつけがないのだ。
花粉症で行ったことのある病院はあるけれど、二度か三度しか行ったことないし、そもそも前の職場の横にあったから便利使いしていただけだ。あそこに行ったら前の職場の人に会ってしまう。まあ、別にいいんだけど。
というわけで、「かかりつけ医」とは一体なんなのか、私の「かかりつけ医」ってあるんだろうかと考えている。
そんなに風邪も引かずに生きてきて、あまり病院のお世話になることがなく、
それで困る日が来ることがあるなんて思いもしなかった。
平匡さんとみくりさん
というニュースを見て、椅子から立ち上がって叫んだ。
平匡さん!みくりさん!おめでとぉーーー!!!
職場の私のいる空間には、私一人。
できるだけ生徒を学校に来させず、教職員もできるだけ学校に来ないという状況。
廊下に出ても、誰もいない。
誰か、誰か、この感情を共有させて!!!
わーっ!って叫んで廊下を走って、みんなと祝いたかった。
明日も、リアルで人と出会わない。
明後日はオンラインで人と会うけれど、ガチガチの勉強会。とてもじゃないけど「逃げ恥が」なんて言えない。
勝手に二人の結婚を祝いたい。
「逃げ恥」好きの人たちを集めて、「逃げ恥」のドラマを流しながら、二人を祝福して乾杯したい。
なんて明るい話題なんだ!
さんざん二人の姿を見てきた。不器用な平匡さんと融通のきかないみくりちゃんのぎこちない、でも筋の通った世界を構築していく様を見てきた。
その二人がゴールインするんだよ!
祝わないでどうするの!
ぜひ全国の映画館で逃げ恥を一日中流す会をやって、会場全員で同時に恋ダンス踊って、それをリモートでつなごうよ!
東京ドームで星野源のコンサート兼結婚式をやろうよ!
みんなみんなでお祝いしようよ!!!
と、一人で盛り上がって、今のご時世それができないことに気づく。
飲み会も映画館もコンサートも。
寂しいことに気づいてしまったけれど。
でも、おめでとう。
お正月のスペシャルドラマで、コロナのあとの世界、マスクのない世界を見せてくれた平匡さんとみくりさん。
出口を見せてくれた平匡さんとみくりさん。
結婚って何だろう?働くってなんだろう?ジェンダーって何だろう?っていう私のぐるぐるした世界に楽しく光を見せてくれた平匡さんとみくりさん。
明るい話題。
よかったよかった。
二人に幸あれ。
みんなで「恋」ダンス踊りましょう!!
しゃべらないと病む。
昨年から気づいているのだけれど、
私はしゃべらないとだめだ。
1日の摂取カロリーが決まっているように、1日にこれだけしゃべらないと健康に悪いというのがある気がする。
そして、平常の私の1日にしゃべる量というのは普通の人をかなり上回っている。だって、教員というのがもともとしゃべる職業だ。そして、私はしゃべりたいから教員をやっているのだ。
授業はもちろん。クラスでの担任業。生徒たちとの普段のやりとり。先生たちと、生徒のことや学校のことでの必要な打ち合わせ。ふつうの同僚とのおしゃべり。週1くらいである飲み会でのおしゃべり。遠慮なくがんがん議論できる人たちとの頭フル回転でのおしゃべり。
平均して、1日に何万字しゃべっていたのだろう。
何万字と読んで、何万字としゃべって、何千字と書いていた、それが私の日常だった。思えば幼稚園児の頃からがんがんにしゃべっていて親の頭を痛くさせていた。
仕事はあるので、授業はするのだけれど。
それ以外のおしゃべりは格段になくなってしまった。
もう、そろそろ、我慢ができない気がしてきている。
しゃべらせて。
べちゃくちゃ、意味ないおしゃべりをしたい。意味のない議論をしたい。対面で、文字じゃなくて、おしゃべりのやりとりをしたい。
病む。