コロナについて教育の立場から思うこと。

このたび、COVID19(新型コロナウイルス)の影響を受けて、考えたことを発信します。

予定を立てなくていい気楽さ

もうすぐ誕生日だけど、何も考えなくていい。

誰も遊びや飲み会に誘ってくれないし、誕生日会も企画してくれないことがもうわかりきっている。

 

もうすぐ年度末だけど、何も考えなくていい。

今年度のチームの解散会も、お疲れ様会も、送別会も、歓迎会も、何もない。

 

もうすぐ春休みだけど、何も考えなくていい。

旅行にはどうせ行けないから、近場で淡々とパン屋とひとりごはんの場所を開拓するだけだ。

 

ゴールデンウィークに海外に行きたかったら、これくらいの時期から予定を立てなくちゃだけど、それも考えなくていい。

ゴールデンウィークに海外に行けるわけは絶対にない。

誰を誘おう?と悩むこともしなくていい。だって、一人でならごはんも旅行もどうとでもすればよいけれど、コロナに対する考え方は様々なので、人を誘うということはあんまりしちゃいけないと思っている。いま、遊ぶというのは、すべて一人が前提。

ゴールデンウィークくらいに、世の中旅行が大丈夫な感じになっていたら、その場で適当に考えればいい。どうせ近場にしか行けない。

 

何も予定を立てなくていいって、すごく楽だなと思った。

逆に、これまで、どれだけ予定に追われてきたんだろうとも思った。

誕生日を一人で過ごしたくない、年度末は飲み会がたくさん、春休みは誰かとどこかに行って、ゴールデンウィークも誰かとどこかに行って、という。

そうしなければならないものだと勝手に思っていた。

それがすべてない、最初から何も考えられないしそれが私の友達全員世の中全員に共通してるっていうのは、ものすごく楽だ。

職場でみんなゴールデンウィークに旅行に行っているのに私だけが行かないって寂しいけど、今年は全員がどこにも行けない。

 

齋藤環さんが、人と会うっていうことは暴力でもあると書いていたけれど、一人ぼっちで過ごさない、予定を入れる、っていう「正しい」誕生日、年度末、春休み、ゴールデンウィークは、結構しんどいものだったんだなと思った。

 

コロナが完全に大丈夫になっても、この気楽さを一度知ってしまうと、さあ戻れるかどうか自信がない。

夜の外出自粛の意味

20時以降の外出がダメなのか。

街は、ふつう。観光地も、ふつう。

ただ、スーツケースを引いた人や外国の人はいない。たぶん、近くの人で、旅行に来ていても日帰りとか一泊とか。

20時を過ぎると街は静まりかえり、警察の人がうろつき回る。20時を過ぎると飲食店は閉まってしまい、夕ご飯をどこかで食べるということはできない。

それで、その結果、感染者の数は減っていって、昼間こんなにふつうに過ごしているのに、緊急事態宣言の効果は出ているような気がする。

このコロナ騒動、もう一年になったけれども、私にはどうも戦争中のことがオーバーラップされてならない。

 

ユダヤの人は20時以降の外出がダメだった。

 

あれは何の意味があったのだろう。

 

移動が制限される、楽しいことを我慢しなければならない、お医者さんやエッセンシャルワーカーに感謝してモノやお金を送る。

 

コロナ禍って何なんだろう。

誰がどういうデザインで描き出しているんだろう。

戦争中も。

 

大にぎわい

四条に行った。

大混雑だった。

ランチで入ったお店は席間が近くて、店員さんはマスクをしていなかった。

 

昨日、用事があって西宮に行った。

食事をしようと西宮ガーデンズに行った。

大混雑だった。

食事処は大行列だった。

 

なにこれ。

どうなってるの。

 

でも、我慢しているの、損みたいな気もしてきてしまう。

休校が必要だったのか

ふつうの生活が続いている。

 

最後に大勢での飲み会に参加してから一年以上経っている。

夜はまっすぐ家に帰るのがふつうになった。

誰とも約束をしないのがふつうになった。

職場の人としかしゃべらないのがふつうになった。

お昼ごはんはみんなでYouTubeを見ながら黙って、がふつうになった。

旅行に行きたいと考えないことがふつうになった。

パスタやインスタントラーメン、マスクやトイレットペーパーは多めに買っておくのがふつうになった。

一日一回は体温を計るのがふつうになった。

洗える服を買って、こまめに洗濯するのがふつうになった。

出勤したらすぐ、帰宅したらすぐ、しつこいほど手を洗い、ハンドクリームを塗るのがふつうになった。

ハンドクリームは皮膚科で処方してもらう強力なものがふつうになった。

出張がかなり減って、zoomで会議というのがふつうになった。

マスクをつけているのがふつうになった。

 

コロナ以前と比べたら、「ふつう」の概念がものすごく違っている。

 

コロナ以前は、なんと無防備に、他人が触れたものや他人の唾液や鼻汁などの飛沫に接して生きていたんだろうと思う。

 

新しい生活様式、を、かなり実践していて、それがふつうになっているのだと思う。まさに、ニューノーマル

 

でも、緊急事態宣言というのは、こういう「ふつう」の中でいいのかと思う。たとえ、「新しいふつう」でも。

私はテレビのニュースもあまりチェックしなくなったし、行政からのLINEも流し読み。ただただ増減するだけの数字をスルーするようになっている。

 

今回の緊急事態宣言の失敗は、インパクトとわかりやすさがないことだ。

前回、もっともインパクトがあり、わかりやすかったのは、休校だ。

休校で仕事に行けない論がまず起こるというのはおかしいのではないかと私は考えていた。でも、そうだったのだと今ならわかる。休校で子どもが家にいることにより、学校ですら休みになるのだから会社も、という考え方が生まれた。そして、子どもが家にいるから出社できないという人が多数いたために在宅ワークの必要性が非常に高かった。

休校、そして在宅ワークに伴って、家で食事を取らなければならなくなり、パスタやインスタントラーメン、ホットケーキミックスが売れすぎて欠品になった。そのほかの食材もどんどん売れた。そのスーパーの棚の異常は報道の絵的にインパクトがあるものだった。

メディアには「8割おじさん」が出てきた。人との接触を8割減らせと西浦先生はわかりやすく言った。Twitterなどを使って発信をした。彼はデータ屋さんだから、データに基づいて話をする。やがて彼は叩かれ、メディアに出なくなる。事情は知らないけれど北海道大学から京都大学に来て、研究をされている。私は西浦先生の論は、研究者としてごく真っ当だと考える。ただ、実際にはデータで計り知れないことはあるし、行政やメディアは都合が悪くなると離れていくということはわかった。

安倍さんはこのコロナのどたばたには向いていない人。だから、彼はこのどたばたに向いていた。棒読みやとんちんかんな返答やずれた政策などで、一身に批判を浴びた。批判を浴びるのに向いていた。すべてが安倍さんのせいにできた。

選挙前の吉村知事は目立ったし、小池さんも毎日華やかなお洋服とマスクで目立った。いつのまにか二人ともあまり目立たなくなった。発言等に慎重になってしまった。

国会も混迷を極めた。みんなが関心を持ちやすい話題だったため、Twitterなどで丁々発止のやりとりが拡散された。9月入学論は混迷の最たるものだろう。

みんなが暇だった。とりあえず子どもも学校に行かない、大人も会社に行かない、という毎日だった。

 

今回、学校がある。

すると、在宅ワークでなくてもいいのだ。実は子どもが家にいないなら在宅ワークしやすくなるのだけど、出社した方が仕事が捗ったり、出社の人と在宅の人とが混在するなら出社の方を選択したりして、前回ほど在宅ワークをしていないと思うのだ。

子どもが家にいる状況が「緊急事態」だったのではないだろうか。

 

学校を一斉に休みにしたのは、私は愚策だったと思っている。

でも、今、学校が全くふつうに通常通り行われているのは、少なくとも意識面においてよくないと思う。もちろん、学校の中では、グループワークができなかったり、音楽や体育などですることを選ばなければならなかったりで、コロナを意識しているんだけど、それは一般の人には伝わらない。

学校は続けるべきだ。いちいちコロナに反応していたらやっていられないから。…会社もではないか?

学校は続けるべき、でも、分散登校や時差登校、部活動の休止などでラッシュ時を避けて帰すなど、なんらかのことは必要なのではないか。

学校が一番経済的影響が少なく、政府が思うままにできる機関であり、パフォーマンス効果が高いなら、今回も学校を操作することで会社も間接的に操作できるのではないか。

 

ただ、個人の「自粛」が求められるだけでは、だめだと思う。

政府がほんとうは緊急事態宣言なんて出したくなくて、自分に一番被害がなさそうなように、飲食店と8時以降の外出のみを強調する(他にもたくさんあるだろうことは想像できているが)のは、よくないんじゃないか。

 

春の長期間一斉休校は愚策であり、もう二度とするべきではないと私は考えている。

でも、あの効果というものについてしっかり考えるべきだと思うのだ。

やっぱりふつう

仕事が早めに終わったので、やっとデパートに行けた。

ものをいただいたので、お礼を送らねば、と。

大混雑。

外国人がいないだけ。

日本の人(と思われる人)だけで大混雑。

地下一階の食品売り場も、七階のバレンタイン売り場も。

そして、以前は、入り口に人がいて、消毒を促していたけれど、そういう制度はなくなったっぽい。というわけで、消毒も結構適当。

内容的には、観光客が減って土産用としての売り上げが、とか、服を買う人がいなくて、とか、、高額商品が売れなくて、とか、そんなのがあるんだろうけど、人出だけを見ると、平常時と変わらない。

送るものを買って、送り先の住所を書くとき、お店の人は自分のペンを渡してくれた。消毒とか、いいのかな。

そして、私も、もうあんまり人混みを怖いと思わなくなっていることに気づいている。

街から帰っても、帰宅してすぐにお風呂に入ったりとか、しなくなっている。

消毒はある程度しているしみんなマスクもしているし、京都外の人はほとんどいないはずだし、外国の人もいないはずなんだけど、これでいいのかなぁって思う。

人がたくさん来ていても、百貨店の売り上げが落ちていることは目に見えてわかる。だから、経済に大打撃があることはすごくわかる。お客さんが来なかったらもっとダメージを受けるから、お客さんが来なければいけないんだと思う。

でも、これでいいのかなぁ。

旅行に行けなくて飲み会がなくてちょっと不便な生活、というだけな気がする。緊急事態宣言って。

ふつうに仕事していて日常が何も変わらないっていうのも大きいのだけれど。

これでいいのかなぁ。

 

ふつうの生活

なんか、ふつう。

緊急事態宣言が出ているんだけど、ふつう。

ふつうに起きてふつうに家を出てふつうに授業してふつうに部活動やってふつうに残業してふつうに帰宅してふつうに家事してふつうに翌日の準備してふつうに寝ている。

何も特別なことがない。

あるとしたら、デパートが早く閉まってしまうから行けないことと、帰る時間には外食のお店が開いていないということだけど、

もともと、デパートが開いている時間に帰れることは滅多にないし、ごはんもラストオーダーの時間までに帰れることは滅多にない。

だから、何も実感がないのだ。

いまだに、私の勤務先では陽性者は出ておらず、学級閉鎖や休校という事態には至っていない。

旅行に行けないことと飲み会がないことも、いつもと違うこと?

でも、それくらいで、忙しく忙しく過ごしている。

緊急事態宣言が、他人事みたい。

ニュース見る暇も新聞読む暇もなくて、コロナのニュースは、LINEのニュースでくる日々の数字を見つめているだけ。もはや何の数字なのか実感がわかない。

ふつうすぎて、なんかもう、よくわからない。

スポーツ推薦における平等性の担保?

緊急事態宣言で、学校は休みにならないとしても、部活動はどうなるんだろうと思って調べている。

 

大会等、中止になるのか、と調べても、無観客などの措置は取られても中止にはならないらしい。今現在。

 

もう3日後だからやってしまいましょう、とか、あとは決勝だけだからやってしまいましょう、なら、全然何も思わないです。

 

そして、感染のリスク等もわかった上で、それでもやりたいなら、やったらいいと思うのです。

 

だって、せっかく、そのために準備してきたんだから。

そして、延期したところでいつ開催できるかわからないし、学生にはタイムリミットがあるから。

 

でも、その理由が、

 

たとえば東京の子だけ緊急事態宣言を理由に大会に出られないとしたら、

大学入試のスポーツ推薦で東京の子だけ不利になってしまうから、

 

というのであれば、は?と思う。

昨日のニュースで聞いた。

 

そもそも、スポーツ推薦とは何なのかということから問い直さなければならない。

 

そして、大学入試とは何なのか、大学とは何なのかということを問い直さなければならない。

 

名古屋大の内田良さんをはじめ、部活動についての疑問を呈する人は多くなっている。

とくに運動部や一部の文化部は、大会があるから過剰な練習を行い、生徒にも教員にも必要以上の負担を強いる。

だから全国大会をなくせ、というのは極論だし、やっぱり試合や大会があるから部活動にハリがあるんだし、と思う。

 

大会がどうしてあるか。

どなたの研究だかすぐに思い出せないんだけど、戦後すぐに教員になった人は、師範学校の同期もおらず、研修もあまりなく、寂しかったからサークルを作った、というのがあって。これは教員間のサークルの話だったと思うんだけど。

他校と交流しましょう!っていうのは、生徒のためももちろんあるけれど、教員間のコミュニケーションのためというのもあるのだということ。

内田良さんが指摘しているのは、その教員間や大人間での見栄的なもの(大会で何位をとるとか、組体操で何段ピラミッドを組むかとか、十分に練習された卒業式をとり行うとか)が、過剰な負担を生み出しているのではないかということ。

 

学校とは何か。

さんざん、このコロナ禍で私が考えさせられたこと。

やっぱり、基本は授業だと思う。優先第一。

なぜなら、教員免許は国語なら国語、数学なら数学の専門教育を受けた人がとってるから。

国語を教えることに付随して、学級指導や校務分掌、部活動等があるわけで。

そして、大学とは何かを考えたとき、やはり、「学問」「研究」だと思う。

サッカーを極めたい、サッカーについて専門的に学んで、サッカーについて研究するんだ!というなら、サッカーでのスポーツ推薦をどうぞ。

スポーツ推薦というのを否定したいわけではない。AO入試の一形態だから。各大学の運動部の事情は横に置く。でも、たとえば、3ヶ月以上の留学経験があれば受験できる枠なんかは、もうダメなんですよ。平等性が担保されていない。コロナ禍になる前に留学した人勝ち。そして、スポーツ以外でも、すでにコロナ関係で大会やイベントに参加できなくて実績を作らなかった子はたくさんいるだろう。

だから、スポーツ推薦での不平等性を理由にして、非常事態宣言下での部活動のあり方や大会運営を考えるのは、よくないと思うのです。

 

そうじゃなくて、違う理由で、不平等性とかそういう理由じゃない理由で、考えて欲しい。